ビネー式知能検査2 鈴木ビネー式知能検査と鈴木治太郎

鈴木ビネー知能検査とは

鈴木ビネー知能検査は鈴木治太郎(はるたろう)博士が1930年(大正14年)に発表されたビネー式知能検査で、正式には「実際的個別的知能検査法」といいます。検査問題は主にスタンフォード・ビネー知能検査をもとにして、実験検証を重ねた成果がもとになっています。

その後、鈴木博士が存命中に1936年、1941年、1948年、1956年と改訂されました。

改訂版鈴木ビネー式知能検査とは

田中ビネー式は数回にわたって改訂されていますが、鈴木ビネー式は大正14年に刊行されて、昭和31年以来改訂されていませんでした。それは昭和31年(1956)版の序の中で鈴木治太郎博士が「私は、絶えずこの尺度の標準の性格度について自分の研究はもちろん、他の多くの有力な方々がこのスケールを利用して下さった実験結果を参考にしてその検証を続けているが、標準を改める点はいまなお発見しない」とあり、改訂されないまま使われていました。

しかし、日本の社会状況の大きな変化や、子どもたちの発達加速現象もあって、この検査の内容では測定が不適当になって時代的に受け入れられないものも見られました。例えば「美の比較」という項目に女性の顔が使われ、「絵の中の遺漏の発見」では目、鼻、口、両腕のない人物が使われていました。図版も昭和30年代の大阪の様子を基本に使っていており、言葉の言いまわしが、現代の子どもとはかけ離れていました。

そこで、鈴木治太郎博士のご子息である鈴木治夫氏から許可を得て、改訂版・鈴木ビネー知能検査として、2007年に発売されました。問題数は72問で短時間に実施できます。

鈴木治太郎博士について

鈴木治太郎博士(1875-1966)は、1875(明治8)年、滋賀県大津市に生まれ、1897(明治30)年、滋賀師範学校(現・滋賀大学教育学部)を卒業後に滋賀県堅田小学校、県立彦根高等女学校(現・滋賀県立彦根西高等学校)の教諭に着任しました。

1900(明治33)年に児童研究論文として「小学期における男女児童心性の比較研究」を初めて発表しました。その中で、子どもの男女差について考察し、また短所で補うことができる所はその補全をはかって、長所はますます発達させて両者の個性に相応しい教育を施すべきと述べています。

その後、1905(明治38)年に大阪府師範学校教諭兼訓導となりました。

1907年(明治40)に大阪師範付属小学校主事となって、その前年から始まった特別教室の学力不振児教育を行いました。その動機は、学級内に非常に不進歩の児童がいるのを発見したものの、これに対する集団指導では児童の個人性に満足を与える教育方法を施していない状態であるという痛烈な批判意識にありました。

鈴木はここでの実践から、知能測定法の開発に着手します。

1913年(大正2)に大阪府天王寺師範学校付属小学校(現・大阪教育大学付属天王寺小学校)教諭となり、そこで「学業不振児」の判別指導を行い、彼らのための特別学級を公立学校に設けることの必要性を文部省に提唱しました。

1917(大正6)年に大阪市助役でのちの大阪市長となった関一(せきはじめ)に抜擢されて、大阪市視学に就任しました。視学は現在の指導主事のような小学校の教員を指導する立場の職です。

そこで、当時の大阪市における不就学、二部教授、過大学級をはじめとした劣悪な教育条件の問題を把握し、児童保護事業・教育救済事業を通して、都市下層における子どもの貧困と向き合いました。

1922(大正11)年、66問からなる「大阪児童智能測定法案」を発表します。

1929(昭和4)年、職度適用年齢のさらなる拡大を決意して、大阪市視学の職を辞し、標準化の実験に専念します。翌1930(昭和5)年、それまでの研究成果を取りまとめ「実際的個別的智能測定法」を刊行し、さらに16,059名を対象に標準化実験を重ねて、1936(昭和11)年に「実際的個別的智能測定法修正増補版」を発行しました。

これは対象が2歳から20歳まで、問題数は66問からなり検査項目はビネ・シモン式知能検査1908年版と1911年版から47問半、ターマンがスタンフォードで改訂したもの16問、クールマン(Kuhlmann.F アメリカ・ミネソタ州の医師、ビネー知能検査を改良し、乳幼児期にまで拡大し適用した)が考案したもの1問のほかに鈴木自身が考案したもの1問半がありました。

大阪市では鈴木を中心に「学業不振児(知的障害児)」に関する研究が行われていましたが、鈴木が大阪市視学を辞めてからも大阪市教育部の嘱託となって、1938(昭和13)年から1939(昭和14)年に大規模な調査を行って、その成果として大阪市が「大阪市における学力不振児の調査」「大阪市尋常小学校における優秀智能児の調査」をまとめました。

その研究成果をもとにして、1940(昭和15)年に教育勅語発布50周年記念事業の一環として、知的障害児を対象にした学校である大阪市立思斉学校が設立されることになりました。この学校は日本で最初の公立知的障害特別学校です。

またこの学校は同年鈴木治太郎を所長として開設された、大阪市立児童教育相談所の敷地内に併設される形で開校しました。

当時は障害児を対象にした学校の規定がなかったために、小学校に準じる課程を持った各種学校としての位置づけでした。その後、1957年に大阪市立養護学校となり、2009年には大阪市立思斉特別支援学校、さらに特別支援学校が大阪府に移管されることに伴って、2016年に大阪府立思斉支援学校へと改称され現在に至っています。

鈴木の知能検査はその後に改訂され1941(昭和16)年、全検査76問、知能年齢23歳に拡大されて、1948(昭和23)年には「IQ算出便覧」を備えた改訂版が発表しました。鈴木ビネー式知能検査は、こうして誕生しました。1956(昭和31)年、「実際的個別的智能測定法〈昭和31年版〉」が刊行されました。これが鈴木治太郎による鈴木ビネー式知能検査の最期の改訂となります。

また著書に「智能測定尺度の客観的根拠」「個別智能測定の手引き」「優秀智能児はどんな親から生まれるか」などがあり、研究の成果を東京大学や京都大学などから招聘され、特別講演もされました。

1950(昭和25)年、京都大学文学部より「文学博士」を授与されています。

1966年(昭和41)年、大阪で逝去しました。

参考

Dr.Clover’s Computer Clinic

サイコロジスト101

文教大学人間科学大事典

Wikipedia

Quizlet

総合心理相談 ES DISCOVERY

心理学用語の学習

中村屋

Webcat Plus

鈴木治太郎の知能の発達理論の検討

古市出版

白梅学園大学・短期大学紀要 戦前における鈴木治太郎の「適能教育」論の特徴と意義

鈴木ビネー知能検査改訂への道 心理検査出版社社員へのインタビューから

東京学芸大学紀要 総合教育科学系第59集(2008)

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