1878年 サウスカロライナ州グリーンヴィルに生まれました。
知的で敬虔な母親に対して、父親は酒飲みの上に浮気がちで、ワトソンが13歳の時
に父親は家を出てしまいます。
そうした家庭環境にもあり、ワトソンは頭がいいけれど怠惰で、母親にも教師にも反
抗し、暴力沙汰も起こしていたといいます。
1900年 1894年、大学に入学したものの学業に身が入らず、その大学の恩師の助けもあっ
て、シカゴ大学に入学し直して心理学を学びます。
シカゴ大学大学院では、機能主義心理学シカゴ学派の中心人物の一人であるジェーム
ズ・ローライド・エンジェル(James Rowland Angell,1869~1949)のもとで学び
ました。
1903年 シカゴ大学で「動物の訓練」という博士論文で心理学の博士号を所得し、シカゴ大学
講師となりました。
1907年 ジョンズ・ホプキンス大学で講師になり、翌年同大学で実験心理学・比較心理学の助
教授になりました。
1909年 アメリカ心理学会の創設に貢献した心理学者、ジェイムス・マーク・ボールドウィン
(James Mark Boldwin,1861~1934)の後継として31歳の若さでジョンズ・ホプ
キンス大学の正教授になり、1920年まで務めました。
1912年 ジェイムス・M・キャッテル(James Mckeen Cattell,1860~1944)に招かれていっ
たコロンビア大学での講演で、行動主義者から見た心理学について講義を行い、「行
動主義」という言葉を初めて用い、自身の立場を明確にしました。
・行動主義
ヴントの意識心理学(内観、内省)の否定し、心理学が科学になるためには内省方法を捨て、
客観的に観察される行動を対象にして、刺激と反応に着目しました。
Stimulus – (内的過程) – Response → SR心理学
(刺激) (反応)
・SとRの間の内的過程は分からないこととして不問にし、刺激と反応という観測可能な要素を
研究対象にしました。
ワトソンの提唱した行動主義はワトソンが攻撃的に主張した事から「ワトソニズム(Watsonism)」ともいわれます。
1913年 アメリカ「心理学評論」誌に寄稿した論文「行動主義者から見た心理学」の中で行動
主義を提唱しまた。
その冒頭で、「行動主義者が考える心理学とは、完全に客観的で実験に基づくよう
な自然科学の一部門のことだ。その理論上の目的は、行動の予測とコントロールで
ある。内観が方法にとって欠くことのできない部分を形成することはないし、デー
タの科学的価値は、意識に関して解釈を与える用意があるかどうかには基づいてい
ない。」と述べました。
1915年 37歳の若さで、アメリカ心理学会の会長に就任しました。
1919年 イギリス心理学会の大御所で社会心理学者のW.マクドーガル(William Mcdougall,
1871~1938)を誹謗し、世間から非難されました。
1920年 コロンビア大学の大学院生で助手のロザリー・レイナーと連名で「条件づけられた情
動反応」を発表。奥さんと離婚して、ロザリーと結婚しました。
アルバート坊やの実験
生後11か月の乳児アルバート君(スタッフの子ども)を対象に恐怖条件づけを行いまし
た。
白いネズミを見せ、乳児がネズミに触ろうとするとその背後で鋼鉄の棒をハンマーで
叩いて大きな音をたてました。その音が鳴ると乳児は驚いて泣き出してしまう。(=
恐怖刺激)。
これを繰り返すと、実験前は怖がっていなかったアルバート君はそのうちネズミを見
ただけで逃げ出したり、泣き出してしまい、さらにウサギや毛皮のコートなど似た特
徴を持つものにまで恐怖を抱くようになりました。(=ネズミと恐怖刺激の結合)
この実験から、不安や恐怖も、これに類似した幼年期の経験に由来していると主張し
ました。
この研究は、情動のような複雑な反応も条件づけられるということを示すだけではな
く、それが消去されるならば、ある種の心理療法(行動療法)足り得ることを示しまし
た。
同年、乳児を用いた実験や従来の学説への批判、女性スキャンダルで大学を罷免され
てしまいました。
1921年 知人の紹介で広告代理店トンプソン・カンパニーに勤めて、広告や市場調査、営業、
コピーライター業務など心理学の考え方をもちこんで功績をあげ、副社長にまで出世
しました。そのかたわらで心理学の研究や出版を続け、65歳で引退するまで活躍し
ました。
1924年 コロンビア大学で後に行動療法の開拓者と言われるメアリー・カバー・ジョーンズ
(Mary Cover Jones,1896~1987)の「ピーター坊やの研究」の指導にあたりまし
た。
この論文は白うさぎを異常に怖がる2歳11ヶ月のピーター坊やの治療に成功したとい
うものです。
ワトソンはアカデミックな世界から引退を余儀なくされていましたが、この時期にコ
ロンビア大学においてある財団の基金を得て児童研究のコンサルタントに所属してい
たとのことです。
1958年 80歳で亡くなりました。
ジョン・ワトソンの言葉
無駄な努力をしたことが分かっただけでも、十分に大きな収穫である。