イワン・パブロフ⑤ 晩年

晩年は睡眠や本能などを研究する傍ら、再教育を考えていたウラジミール・レーニンと親交を結び、条件反射の発見は「全世界の労働階級にとって重大な意義を持つ」と賛辞が与えられました。パブロフは共産主義には反対しておらず、ドイツ留学で鍛えられた弁証法的、唯物論的な態度や口述筆記に散見されるマルクスの用語などからマルクス主義であったことはレーニンからの信頼を得られたものと思われます。またレーニンはパブロフを親友の一人として挙げており、パブロフもレーニンを同志と呼んでいました。

パブロフは条件反射をボリシェビキイデオロギーの根拠として提案して適用され、人間の行動を外部から強制的に変容させる方法「行動修正(Behavior Modification)」がソ連において誕生しました。

スターリンの下でもそれは続けられ、最終的には中国に提供されて洗脳と呼ばれました。

1925年 ソビエト連邦政府がノーベル生理学・医学賞受賞を記念してソビエト科学アカデミー
付置の生理学実験所を改組拡充してソビエト科学アカデミー付属パブロフ生理学研究
所を創設され、所長になりました。

当初は単に生理学研究所と称しましたが、1936年、パブロフの死とともにその名が冠されました。1950年にはレニングラード(現サンクトペテルブルク)近郊の生物学研究所を傘下に収め、ソ連・ロシアを代表する研究所へと発展を遂げます。研究所では、パブロフの研究を継承して大脳生理学の研究に力が注がれています。

1926年 軍医学校教授を辞任。

1927年 「大脳半球の働きについて」(Lektsii o rabote bol’shikh golovnogo monza)を出版

1932年 「条件反射による高次神経活動(行動)の客観的研究の20年」(Dvadtsatilenii opyt
obektivnogo izucheniya vysshei nervnoi deyatel’nosti(povedeniya)zhivotnykh
uslovnye refleksy)を出版。

1935年 パブロフは85歳で第15回国際生理学会を主催しました。スコットランド人生理学者
ジョージ・バーシャーがパブロフのことを「世界生理学会の王子」と7か国語で演説
し、聴衆から拍手喝采を受けました。この会議のために37か国から900人の生理学者
とロシアの科学者500人がレニングラードに集まりました。晩さん会はモスクワ・ク
レムリンで開催されました。

1936年 2月27日、86歳の時にレニングラードで2度目の肺炎の発作の後に死去。パブロフの
死は全世界から惜しまれ、ソビエト政府は彼を国葬にしました。

1937年 1932年にパブロフの研究室に留学した林髞の訳書が出版され、条件反射による大脳
両半球の働きに関するパブロフの研究が日本に導入されました。

1950年 パブロフ生理学発展のためにソビエト連邦科学アカデミーとソビエト連邦医学アカデ
ミーの合同会議が開催される。科学アカデミーの生理学研究所、高次神経活動の進化
論的生理学・病理学研究所、医学アカデミーの中枢神経研究所は合併されてパブロフ
生理学研究所となりました。

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