イワン・パブロフ① 学生時代まで

イワン・ペトロヴィチ・パブロフ(Ivan Petrovich Pavlov) ソビエト連邦の生理学者。苦しい生活を続けながら消化作用と神経の関係を明らかにし、犬を使って色々な実験を行い大脳の働きを科学的に研究しました。

1849年 9月24日、帝政ロシア、モスクワ東南にあるリャザンという古い町の中心に、貧し
いカトリックの神父であったピョートル・ドミトリッチの長男として生まれました。
弟が3人、妹が1人いました。実際は10人兄弟だったのですが、5人は子どもの時に
亡くなっています。残った5人の兄弟のうちイワンを含む3人は研究者になりまし
た。
父は元々農民の出身であったので、苦しい暮らしを助けるため、小さな果樹園や野菜
畑をつくっており、イワンは小さい頃からその手伝いをしていました。また、皿洗い
や幼い弟たちを風呂に入れるなど母の手伝いもしていました。

1857年 高い塀から敷石の上に落ちて重傷を負い、修道院に預けられて長く療養をしました。

1860年 リャザンにあるロシア正教のリャザン教会学校に入学し、司祭になるつもりで勉強を
始めました。

1864年 小学校を卒業し、リャザン神学校に進学。15歳から20歳までの生徒が200人くらい
通っており、ロシア語やロシア文学、ラテン語、ギリシア語などの語学の他に歴史や
地理、そして神学を学び自然科学はさまざまな国の動植物を少し教わる程度でした。                 神学校にしては進んだ考えを持った先生が多くおり、その影響で教科書以外に自然科
学や政治や社会の問題に関する本を多く読みました。後年パブロフは「私はこの学校
の事を、感謝の気持ちを持って思い出します。そこには立派な先生が何人かいまし
た。…ここでは生徒が自分自身で、知識を伸ばしていくことができました。」と言っ
ています。

1869年 リャザン神学校を退学。

1870年 21歳でサンクトペテルブルク国立大学の法学部に進学。成績が良く家が貧しいとい
う証明書があったので奨学資金をもらう事ができました。
入学から一ヵ月後、物理数学部自然科学科へ転部し、動物生理学を専攻します。
パブロフは大学について「当時この学部は実に盛んでした。講義の素晴らしくうまい
権威者が、大勢教授をしていました。私は専攻科目として動物生理学と第二科目とし
て化学を選ぶことにしました。私たち生理学を学ぶ者はツィオン教授の深い感化を受
けました。彼は生理学上の非常に複雑な問題を、驚くほどわかりやすく説明し、また
巧みな実験を行って私たちを心の底から引き付けしまいました。このような先生は誰
でも決して忘れることが出来ないものです。」と言っています。

イリヤ・フェデエヴィチ・ツィオン(I.F.Tsyon)の指導を受け、大学生のパブロフはツィオンと緊密な関係を保ちながら勉学に励みました。ツィオンの生理学の講義に出席し、夜はたいていツィオンの小さな生理学研究室で過ごしました。

1874年 大学の卒業前から実験結果を発表して、その研究報告が認められ大学のコンテストで
金メダルを獲得しました。しかし、実験に明け暮れるあまり卒業に必要な単位が不足
し、留年を余儀なくされました。パブロフは両利きであったため手術が上手であった
そうで、外科医にとなります。

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