高木憲次先生から療育の原点をたどる。

デジタル大辞泉によると、療育とは「障害をもつ子供が社会的に自立することを目的として行われる医療と保育。」とあります。

脳と発達(第253冊)第43巻第6号やリハビリテーション研究第55号によると、元々は「療育の父」と呼ばれた高木憲次先生(1888~1963)が昭和17年にはじめて提唱した造語だそうです。

月刊ノーマライゼーション2012年4月号によれば、高木先生は、大正4年(1915)、東京帝国大学医科大学を卒業し、整形外科医局に入りました。深く患者と接するとともに肢体不自由者の実態を知りたいと考え、翌5年から東京のスラム街で肢体不自由者の実態調査を始めました。

この経験に基づき、大正7年、肢体不自由児が治療に専念すれば教育の機会を失うし、教育を受けようとすれば治療の機を逸することから、治療とともに教育を受けることができる「教療所」が必要であると主張しました。

この考えに基づき、東京市をはじめ内務省や文部省に対して肢体不自由児の実情を話して、教療所の設置を懇請しました。

その実現のないまま、大正11年にドイツへ留学することとなり、彼の地においてクリュッペルハイムを見聞したのでした。

ドイツにおける見聞に基づいて帰国後の大正13年に「クリュッペルハイムについて」と題する論文を発表しました。

医学が進歩したにもかかわらず、奇形や不具とよばれて不治の病と放置されていたものが多いことに対して、治療とともに教育を行い、職能付与によって自活できるようにすることが必要であると説き、わが国にもこのような機能を備えた「クリュッペルハイム」が必要と主張しました。

この年12月、東京帝国大学教授となり、恩師の田代義徳の定年退職の後を継いで、整形外科講座担当教授になりました。

昭和3年(1928年)頃に「奇形・不具」という名称に代わるものとして、「肢体不自由」という名称を提唱しその後は医学会でもこれが採択されました。

また、恩師の田代先生は、定年後に東京市会議員となって肢体不自由児の保護施設の必要を力説します。

昭和6年、東京市教育局は調査の結果、小学校に在籍する体操免除の肢体不自由児が約700人を数えたので、新しく学校を建設することになり、昭和7年5月に日本で最初の肢体不自由児施設である東京市立光明学校が開校しました。

高木先生は恩師の田代先生とともに肢体不自由児の医療ばかりでなく、日本の肢体不自由教育の発足に当たって力を尽くし、肢体不自由児療育の体系を築きあげます。

また高木先生は、念願としていたクリュッペルハイムの建設に引き続いて尽力し、戦時体制の進む情勢の中で、幾多の困難にもかかわらず、民間の力を結集して建設運動を進めた結果、ようやく昭和17年(1942)5月、整肢療護園が開園しました。これらの功績から高木先生は「肢体不自由児の父」ともいわれます。

児童福祉法や身体障害者福祉法の制定にも力を入れ、昭和23年に東京大学を退職し日本肢体不自由児協会を設立、会長となりました。死後に高木賞が制定され、毎年功労者、団体などに贈られています。

高木先生によれば、「療育とは、現代の科学を総動員して不自由な肢体を出来るだけ克服し、それによって幸いにも回復したら「肢体の復活能力」そのものを(残存能力ではない)できるだけ有効に活用させ、もって自活の途の立つように育成することである。」と定義しています。(昭和26年「療育」第1巻第1号)

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする