音楽療法について③ 続・音楽療法に影響を与えた人たち 日野原重明博士について

日野原重明とは

日野原重明 (1911~2017)山口県生まれ。医学博士。

聖路加看護大学学長、国際基督教大学教授、自治医科大学客員教授、ハーヴァード大学客員教授、東洋人初の国際内科学会会長、聖路加国際病院院長・名誉院長などを歴任。勲二等瑞宝章及び文化勲章受賞。

100歳を超えて現役の医師として活躍し続けました。日本で最初の人間ドックを開設し予防医学を提唱。また日本で最初の独立型ホスピスを設立して、終末医療を普及しました。「成人病」に代わる「生活習慣病」という言葉を提言するなど、医学・看護教育の刷新に尽力したことで知られる人物です。

主な著書に「生きてるだけで100点満点 99歳のぼくから君たちへ」「働く。 社会で羽ばたくあなたへ」「旅での人と自然との出会い」「いのちの絆 ストレスに負けない日野原流生き方」「道は必ずどこかに続く」「いのちのバトン 97歳のぼくから君たちへ」「人生を輝かせる10のお話」「95歳からの勇気ある生き方」「人生、これからが本番 私の履歴書」「私が人生の旅で学んだこと」「生きることの質」「いのちの器 人生を自分らしく生きる」「日野原先生からナースに贈る35のメッセージ 」など多数。

音楽療法との関わり

日野原先生は、1991年、日本バイオミュージック学会を設立しました。1995年、臨床音楽療法協会と統合して、全日本音楽療法連盟(JFMT)が設立。2001年、JFMTが再組織されて日本音楽療法学会が設立されました。日野原先生は、日本音楽療法学会の初代理事長でした。

日野原先生とよど号ハイジャック事件

1970年3月31日、日本内科学会総会に出席するため羽田から福岡に向かっていました。日本航空351便(ボーイング727型機)が富士山頂に差し掛かる頃に9人の若者が突然立ち上がり、日本刀を抜いたリーダーらしき人物が「我々日本赤軍は、この機をハイジャックした。これから北朝鮮の平壌にいく」と叫びました。

日本で最初のハイジャック事件である「よど号ハイジャック事件」です。

4日間人質として拘束され、機内では脱水症状に陥った乗客を問診。

韓国の金浦空港で解放されました。解放直後に「彼らは学生」などと話したとされ、よど号グループ側は「事件の理解者」と感じたそうで、その後、晩年は容疑者側との交流も拒まなかったそうです。

還暦を前にして巻き込まれた事件によって大きなトラウマになったと後年語っていますが、「これからの人生は与えられたものだ。誰かのために使うべきだ」と感じ、人生の後半を決めることになったそうです。

日野原先生と地下鉄サリン事件

1995年3月20日、地下鉄日比谷線・小伝馬町駅において、8時2分に北千住発中目黒駅行きの電車がホームに入り、止まった瞬間、次々と乗客がホームに倒れ込みました。小伝馬町から車で10分の距離にあった聖路加国際病院にも消防庁からの受け入れ要請があり、患者4名を受け入れたものの全員呼吸が止まっており、地下鉄築地駅の様子を見ると200人以上の人が倒れていました。

その状況を知った当時83歳だった日野原院長は「今日の外来は中止、患者はすべて受け入れる」という館内放送を流し、医師たちを救命センターに緊急招集しました。

そして続々と重症患者が到着し、急いで救命センターに運ばれました。

また、日野原院長は「軽症患者は礼拝堂に運べ」と指示をして、看護師たちは礼拝堂に走って、壁の配管に人工呼吸器を取りつけ、点滴台や毛布を運んで、礼拝堂は広大な病室として機能しました。

これが、後に「地下鉄サリン事件」といわれる大事件での聖路加国際病院の対応になります。

的確な指示をされた背景には、その3年前に東京築地に移転して救急部を開設し新病院を完成させたところにありました。

1945年3月10日、東京大空襲で100万人以上の罹災した人たちに、当時、大東亜中央病院と改称されていた聖路加国際病院の内科医として勤務していた日野原医師は、治療にあたったものの病院に入りきれない患者が、野外で亡くなりました。

そのような経験から日野原院長は、フロアや廊下を広くしてコンサートが開けるほどの礼拝堂を作りました。

参考

日本音楽療法学会サイト

Musasino Rest Gallery

聖路加国際病院サイト

日経ビジネスDIGITAL(2015年11月23日号)

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