イワン・パブロフ④ ロシア革命

ロシアでは内戦のため多くの人が飢えに苦しみ、パブロフも70歳にして薪を集め、研究所近くの自家菜園で家族のために食物を栽培することを強いられ(数年前に転倒してから片足を引きずっていたパブロフにとって、この作業はひどく困難でした。)、厳しい研究生活を送っていました。
ボリシェビキが政敵を弾圧した1918年から1920年にかけて、パブロフ家は度々家宅捜索を受け、パブロフと長男のウラジミールは短期間拘束されました。
ロシア革命によりロシア人が飢餓に苦しむ中、パブロフが実験で使っていた犬は餓死しパブロフも燃料不足のために一日中ベッドで毛布にくるまっていなければなりませんでした。

1920年 6月、生活に困窮したパブロフはボリシェビキ政権に対し、国外移住の希望を伝える
手紙を送りました。手紙を読んだウラジミール・レーニンは、偉大な科学者の国外移
住を避けるため、パブロフに対する全面支援を命令しました。

同年と翌年に斎藤茂三郎が「消化の心理」と題して「心理研究」にパブロフの研究を
紹介しつつ、心理学的な立場から食欲と食事について論じています。

1924年 アメリカを初めて訪問。
エジンバラ大学名誉学位授与。
レニングラード・ネヴァ川の大洪水でパブロフの犬が溺死しかける。この事件をきっ
かけに犬に固定されていた条件反射が変化したり消滅したりしていることを発見。こ
れにより「実験神経症」の研究を開始。

同年、黒田源次が「条件反射論:意識生活の生理学的解釈」にパブロフが1904年に
発表した「唾腺の心理的興奮」の邦訳を載せています。

パブロフは、動物に精神的苦悶を生じさせる新たな方法を常に考案する面で、非常な独創性を示しました。ある例では、レニングラードの大洪水を経験した犬を使用しました。彼らは水が流れこんできたとき、犬小屋に閉じ込められていて、多くは水の上に辛うじて頭だけを出して何日も耐えていました。
パブロフはこれらの動物を檻に入れて、その下に水を流して洪水が戻ってきたと思わせました。この実験は同じ犬たちに何度も繰り返され、その度ごとに彼らは怯えて苦悶しました。
別の動物は、二個のメトロノームの刻む拍子の相違に恐怖を感じるよう教え込まれました。
拍子を刻み始めると犬は震えだし、目を見開いて口から涎を流し、深い喘ぐような呼吸をし、時折唸り声を出し、いきなり机の上にどさりと身を沈めました。
同じ犬は階段から落ちるのを恐れるように訓練され、恐怖に悶えて階段の上に立っていました。
数多くの犬の脳に二度手術を行った後で、パブロフは彼らの苦痛の表示、落ち着かない態度、極端に敏感で痙攣的な状態、それに伴う―明らかにパブロフは意外でもあったようでしたが―拷問者に対する発作的な敵意を描写しました。
報告の中で、この1904年のノーベル賞受賞者は次のように書きました。
「彼らの痙攣状態のひどさは次第に大きくなり、死に至るが、それは通常手術の二年後である。」二年という歳月…しかしパブロフが特別な愛情で記憶していた一頭の犬がいました。
それは雑種犬で、二年間に128回の手術に耐えて亡くなりました。