星野仁彦先生について

星野仁彦先生とは

1947年、福島県会津若松市生まれの精神科医。医学博士。専門は児童精神学、精神薬理学。福島学院大学教授、副学長。ロマリンダクリニック心療内科医、福島県立医科大学講師

略歴

1947年 福島県会津若松市生まれ

1973年 福島県立医科大学医学部卒業。神経精神科入局。

1979年 医学博士取得

1984年 イエール大学児童精神科に留学

1990年 3月に大腸がんと診断され手術後、同年8月に肝臓に転移。マックス・ゲルソン療法
によって治療

1993年 ロマリンダクリニック心療内科医として勤務

2001年 福島県立医科大学神経精神科助教授、後に退職。

2001年 福島学院短期大学教授。メンタルヘルスセンター初代所長。

2003年 福島学院大学福祉学部教授。初代学部長。

2007年 福島学院大学大学院心理学研究科教授。学部長。

2012年 福島学院大学副学長

幼少期から大学入学まで

ADHDなど発達障害に詳しい児童精神科の第一人者で、自身もADHDであることを公表しています。

星野先生は3歳を過ぎてもほとんど言葉を話すことがなく、両親はとても心配したそうです。4歳を過ぎるころには堰を切ったようにしゃべり始めたそうですが、吃音が青年期になるまで残り、人前で話すのはとても苦痛だったそうです。

3歳の頃、ある日、祖母が「この子、ちょっとおかしいんじゃないの?」といったのです。そのとき祖母に向かって「お前、早く帰れ!」とふてぶてしく言い放ちました。分別もつかぬ子供の言うこととはいえ、思ったことを口にする失敗を何度も繰り返すことになります。

4歳で幼稚園に入園しましたが、登園初日、知らない人間が大勢いる騒がしい場所に連れてこられて大パニックになり、手がつけられないほど激しく泣き喚いたそうです。

発達障害者の人の多くは、環境の変化に弱く、分離不安や対人不安が強いといわれています。星の先生もその傾向が顕著だったようです。常軌を逸した騒ぎ方で、結局、星野先生の幼稚園生活は1日で終わりました。

小学生時代、体育は、鉄棒、跳び箱、ボール競技などまさに手も足も出ず、音楽では、音符は全く読めず、リズム感もなく、縦笛でドレミさえまともに吹けません。手先が非常に不器用なため、ヒモ結び、折り紙、ハサミを使った作業、布や紙の切り貼り、版画など図画工作などはことごとくできませんでした。

小学生の星野先生は、同年代の児童に簡単にできることがことごとくできず、始終ぼんやり空想にふけり、話せば吃音があり、服装はいつもだらしなく、ポケットにはがらくたでいっぱいで、口を開けばとんちんかんなことばかり言うので、学校では常に嘲笑の的であり、いじめっ子たちからは毎日のようにいじめられたり、からかわれたりしていました。小学校高学年になるといじめられた後にこみあげてくるのは「自分はダメな人間だ」という絶望やむなしさだったそうです。

しかし、当時、ひとりだけでしたが、私をかばってくれる親友がいてくれたおかげで、学校に通うことができました。

中学では英語と社会が得意科目となり、また高校野球の勝利予測にのめり込んだそうです。これは全国の都道府県で行われる予選大会の試合を完成して、データを分析し、優勝校を予測する作業は、この上なく楽しい時間だったそうです。

医師だった父の影響で医学部を目指したものの現役では不合格となり浪人しました。浪人中は徹底的に勉強に打ち込んで、福島県立医科大学医学部に合格しました。その後は略歴の通りです。

また、ADHDの分類に司馬理英子先生の命名したジャイアン型」「のび太型」を使用していることで知られています。

主な著書

発達障害に気がつかない大人たち2010年

それって、大人のADHDかもしれません2011年

発達障害に気づかない母親たち2016年

発達障害を仕事に活かす2017年

会社の中の発達障害 いつも嫌なことを言う上肢、いつも迷惑をかける部下 2017年

他多数

参考

Wikipedia

PRESIDENT Online 当事者から専門医になった“私の発達障害”